龍羽ワタナベ 

■簡単プロフィール(詳しいものは、下の方にあります)

台湾在住26年。横浜市出身、青山学院大学卒業。
証券会社勤務、中国・暨南大学への留学を経て、
1997年に台湾で起業。

「経営者(出版社.サロン.レンタル教室等)」「元台湾・開南大學 助理教授」「占い師」「コンサルタント」「作家」(著書多数あり)、
日本で年に数回セミナー(経営・自己啓発・占術等)を開催。
台湾のテレビ番組「ビックリ台湾」にコメンテイターとして出演中。
台北旭日ロータリークラブ21-22年度 会長

台湾進出の際に中国語の社名や商品名、オープンの日時、店舗や事務所の風水、
スタッフ採用や配置など占術を使っての判断やコンサルタント、
同時に会社設立登記やビザ取得等の実務面のサポート業務。

本人もいくつもの会社経営者として20年以上にわたり活躍していることから、
そのアドバイスは実践的と定評あり。
その顧客の多くは、政治家やプロスポーツ選手、上場企業の創業社長、経営者、起業家、在台日系企業の支社長、芸能人など、第一線で活躍中の方たちである。

龍羽の人脈の一部を公開します。
ただし、この方たち全部を龍羽が鑑定した、という意味ではありません。
占い師という立場上、「〇〇さんがクライアントなんです」
と明らかにすることはできないからです。
ですから、この方々の中には、鑑定させていただいた方も
ただ一緒に写真を撮らせていただいた方も
お友達も混じっています(笑)

とは言え、一緒に撮影しただけであったとしても、
龍羽の人脈の広さがご理解いただけるかと思います。

■詳しいプロフィール

【幼少期から就職まで】

小学校から高校までエレベーター式のカトリックの学校で幼少期から少女時代を過ごし、どちらかというと経済的には恵まれた家庭環境でした。

ところが、大学時代に自営業者だった父を亡くし、父の会社の倒産と事後処理等を経験しました。会社の事後処理で、債権者会議だとかその他諸々の世間のキツイ風に思い切り晒されたのです。

同時に、父の存名中は揉み手でスルスリしていたような人たちに罵倒され、
人が容易に態度を翻し、豹変するのを目のあたりにしました。
この一連の出来事がきっかけで「力をつけたい」「強くなりたい」と感じ、
「40歳までに社長になる」と決意しました。

とはいえ、インターネットもない時代に、何をどうしたら社長になれるか
わかりませんでした。ましてや、まだまだ女性の社会進出が珍しかった時代です。
「とりあえずは社長になるには軍資金が必要だ」と思い、
当時給料が一番高かった金融業界(証券会社)に就職することにしました。

ついでながら、営業職に就ければ、株をやっているお金持ちの社長さんたちと知り合えて、将来社長になるための人脈作りになるかも、とか相場を張ることで軍資金を増やせるよね、などという考えもありました(笑)

仕事は、希望通り営業担当に。ちょうどバブル経済の真っ盛りだったこともあり、忙しいながらもイケイケの毎日でした。
しかし、日経平均が1989年12月に最高値をつけてからというもの、市場はパッとせず、きな臭い雰囲気を肌で感じ始めました・・・(後にそれがバブル経済と呼ばれることに)

【中国との出会い】

証券会社のOL時代に何度か中国に旅行し、中国の猥雑としたエネルギーと活気に触れ「これからは間違いなく中国の時代が来る」と確信し、中国を知りたい!と思いました。

「将来社長をやる」と決めていた私は、今、中国語なり中国を学んでおくことが、なにか商売を始めるためのネタになるに違いない、と感じたのです。

その時代にそんなことを言う人はいなかったので、周囲からは変態扱いされました。それでも将来性を感じない証券市場に見切りをつけ、中国に語学留学を決行しました。(当時の中国は、固定電話すら普及していなかったので、持っていた株などは全部売り払って日本を出たために、この後のバブル崩壊による株価暴落の痛い目にも合わずに済みました)

1992年、鄧小平による市場経済政策によって経済特区に指定され、香港や台湾の投資で潤っていた広州を留学地としました。その中でも、将来のツテに繋がるかもしれない、という期待もあって華僑の子弟が多い暨南大学に決めました。

留学生活は、思惑通り、華僑の子弟のクラスメートができ、その上に留学生専用学生寮では台湾人や香港人の友人ができ、充実したものでした。

しかし、当時の中国は大学内でさえも環境は酷いもので、トイレのドアはないし、夏はエアコンもなければ、冷たい飲み物もない、冬はお湯の設備がないシャワーという、
ないないずくしの過酷な生活を経験します。

語学のセンスがない私は、カタコトの中国語しか身につかず、それでも当初の予定通り一年の留学を終え、帰国。

【中国から帰国後の不遇時代】

過酷な中国から戻ったものの見事に就職難民です。世間はバブルが弾けて不景気風が吹き始めていた中、中国関連の仕事なんて、全くと言っていいほどありませんでした。まさに「早すぎた」のです。

仕方ないので、塾の講師やアルバイトで食いつなぎながら「中国関連」の仕事とご縁ができるよう努力を続けていたのですが、そもそもまだ中国なんて注目されていない時代ですから、案件そのもがないのです。現代版大陸浪人です・・・

中国のあんなに過酷な生活を経験したのに、それを活かすことができない・・・
日本社会では、会社を辞めて留学するなんてするのは、ある意味でドロップアウトなんですよね・・・

このまま「中国」にこだわるべきか?
それとも「違う道」を考えるべきか?

私は「40歳までに社長になる」と決めていたのですから、どうしたら社長に近づけるか、という視点で悩みました。当時、今のように「ネットを使ったビジネス」とか、あったらよかったんですけどね・・・

さんざん悩んだ私は、「日本」に中国関連の仕事がないのならば、日本から出ればあるのでは?と考えるようになりました。

なら、どこへ?
やはり中国?

しかし、当時の中国はまだまだ発展途上でしたので、留学生活で生活の大変さは経験済み。あと、物価もまだすごく安かったので、中国で仕事を探しても給料が安すぎます。

香港は?

留学地が広州だったので、留学中は二か月に1度くらいの割合で香港に行っていたので、土地勘がありました。留学終了後の浪人中にもちょくちょく遊びに行っていました。しかし、1997年に中国返還をされる予定だったので、「怖い」と感じたのです。(今にして思えば、この時に香港にしなくて本当に良かったです)

それなら台湾?

台湾なら、同じ中国語(マンダリン)だし、親日だし、
日本からも近いし、悪くないかも?
台湾でもっと中国語をみがきながら、彼らの考え方やビジネス習慣を学ぼう、
台湾人と仲良しになって、一緒に中国に出て行ってもいいし~
などと考えて、
まぁ、とりあえずは行ってみて、ダメだったら日本に戻ればいいじゃん~
と気軽に考えて、台湾に行くことにしました。

【台湾生活スタート】

台湾では、現地採用の口を探すか?とはいえ、ビザがもらえる会社となると、そう簡単ではないし・・・
それとも、40歳で社長なんて悠長なこと言っていないで、もう始めちゃおうか?

じゃあ何を?
なんて自問自答しながら、1997年1月、私は台湾にやってきました。
ろくな社会人経験もない若い日本人女子が、台湾で一体何ができるのでしょうか?

当時の台湾は、今みたいに日系の外食産業などもほとんどなく、若い日本人女性なんて駐在員の奥様くらい、働いている日本人女性を見かけることもない、そんな時代でした。

ツテもコネもない私は、台湾人を相手にするよりは日本人を相手にする方が、リスクが少ない、と考えました。

しかし、日本人相手に何を提供できるのか?
ロクな経験もない、カタコトの中国語が話せるだけの年若い小娘が・・・

日本人相手の商売・・・?
普通に考えて、「日本料理屋」を考えましたが、しかしそもそも料理なんて得意じゃないし、当時の私の能力では台湾で働いてくれる板前さんを見つけることも出きない。

そこで、「日本人駐在員相手のバー」はどうか?と思いつきました。

調べてみると、
日本人駐在員が多い都市には、日本人ママの店がある!
ニューヨークも、ロスも、香港も・・・

そして、台北には、日本人駐在員が夜な夜な集まる「林森北路」と呼ばれる街があり、そこには、居酒屋や小料理屋、数百件の飲み屋(スナックやバー)、そして女性を紹介するクラブまでもが、ひしめき合っていたのです。

しかし、数百件の飲み屋があっても、日本人女性が経営する店は一軒もありませんでした。

「これだ!これしかない!」そう思ったのですが、
ワタシ、下戸なんです。
コップ半分のビールでぶっ倒れる完ぺきな下戸~
おまけにかなりの音痴でカラオケも聞かせられない~

でも、自分の店なら、つまりオーナーなら、お酒飲めなくてもいいよね~、と楽観的に考えて、台湾の首都台北一の繁華街である林森北路で、バーを開店することにしました。

1997年下旬、長いカウンターの店《スナック Lupin(ルパン)》は、生まれました。
数百件もある飲み屋の中で、たった一人の日本人ママの店です。
流行らないわけがありません(笑)

お酒は飲めないし、歌も下手っぴぃだけど、「ちゃんとした話ができるママ」ということで、沢山の日本人の方々に応援していただき、繁盛店として名を馳せることができました。

お客様は、台湾で自分で商売をしている経営者と日本企業の駐在員という、経済的に恵まれた人たちでした。

【龍羽と占い】

ところで、私と占いについても触れないといけませんね。

母方の祖母が占い師だったこともあり、小さい頃から、「あの子は〇年生まれだからしっかりしている」とか「今日は〇〇の日だから、××したらいけないよ」なんてよく聞いていました。

そして、雑誌「マイバースディ」と「ムー」が愛読書、他に、お小遣いで占い本を買い漁るような幼少期でした。

高校時代には、文化祭で「占いの部屋」を開き、タロットカードで占いをしました。これが、私がお金をいただいて鑑定した最初の経験です(笑)

大人になってからも占いの解説本で勉強を続けたり、占い学校にも通ったりはしましたが、まさかプロになるとは思ってもいませんでした(笑)

台湾に来てからは、自分がお店を出す前にも占い師のもとをもちろん尋ねました。
元々好きですから、何か事あるごとに、いえ、何もなくても、占いを受けていました。台湾の占いレベルは高く、毎度毎度驚かされていました。

そういうこともあって、台湾生活にも慣れた頃、占いの勉強を始めました。
当時の私の中国語のレベルでは、教室で他の台湾人と一緒に講義を受けるのはかなり厳しいと思い、マンツーマンで教えていただくことにしました。

四柱推命は余雪鴻老師、断易は李志胥老師・林純媛老師をはじめ他にもお名前をお出しできない老師にもお世話になっています。

台湾で占いの勉強を始めて10年も経った頃、2008年《占いの館・龍の羽》を開店しました。

というのは、占いの勉強も兼ねて、相変わらず、アチコチで占いを受けていたのですが、地元の人が通う占い師は、どこもレベルは高いのに、日本人(観光客)相手のところは、どうもイマイチなんです・・・

「占い師が日本語もできる」というよりは、「日本語ができるので占いを始めた」と思えるような方が多いように感じました。

せっかくに台湾に観光に来た日本人に本場ホンモノの占い体験をしてもらいたい、という思いから、地元民の間で活躍中の占い師に来て頂き、通訳を用意した占いの館を開くことにしたのです。

開店当初は、私自身は経営者という立場でいました。そしたら、ある時私の師匠が「なぜあなたは鑑定しないのですか?」と。
「えっ?私が鑑定してもいいのですか?」

「あなたの占いレベルは全然問題ない、いや、もうかなりのレベルですよ。ただ、あなたの中国語はあまり上手ではないので、その中国語で台湾人を見るのは、キツいだろう、と思っていました。でもあなたのお店のお客さんは日本人なのだから、問題ないでしょう」

と言われ、私も自分の占いの館で時間がある時だけお客様を見るようになったのです。ところが、おかげさまでよく当たるとか、適切なアドバイスを貰える、と評判になり、紹介紹介で、いつのまにか予約が取れない占い師、となっていきました。

【お仕事全般】

《スナック Lupin》と《占いの館・龍の羽》以外に、《焼酎バー》と《スポーツバー》も開店し、一時は4店舗を所有していました。

この頃は、かなり忙しい毎日でしたが、そのような状態で本を書き始め、2014年に日本で一冊目の本を上梓しました。

サンマーク出版から「しあわせを呼ぶお金の運の磨き方」、これは5刷り(25000部)までいっています。

この本の出版を機に、日本でのセミナー・講演活動が増え、二か月に一回は日本に帰国するようになりました。
また、本も年に一冊ペースですが、毎年出させていただいたこともあり、飲食業から手を引くことを決意。

まずはスポーツバーを手放し、次に焼酎バーを譲渡、最後に私の最初のお店《Lupin》を、20周年を迎えたところで、売却しました。

その2年後に世界中がコロナで大変なことになったわけですから、飲食業から引退していて本当に良かったです。

現在は、『占い師』や『コンサルタント業』以外に、『出版業』(占い本・フリーペーパーの発行)、《SPACE龍》という『レンタルスペース』(セミナーや展示会向け)の経営。また、台湾の開南大學で『兼任助理教授』(Assistant Professor)として教壇にたち、台湾のテレビ番組「ビックリ台湾」に『コメンテイター』として準レギュラーで出演中と、多岐にわたり活躍中です。

お仕事ではないですが、21-22年度は台北旭日ロータリークラブの会長として、頑張っています。。
日本のテレビにも何度か出演して、大和田兄弟や夏川りみ、東京エレキテル連合などを
鑑定しました。
台湾では國際衛視局の「ビックリ台湾」で、準レギュラーとして出演しています。
映画には「占い師役」で2本出演しています(笑)

「ママは日本へ行ってはダメというけれど」
「恋恋豆花」

とこんな感じで、いろいろな方面で台湾生活を満喫させていただいております。